ブックレビュー:新教養としてのパソコン入門 コンピュータのきもち

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出版されてから 1 年以上経つ本ですが、面白かったのでブックレビューします。この本は山形さんが書いており、web でも公開されています [ascii.PC 連載 コンピュータのき・も・ち]。書籍では、web の文章に、マニアな単語の注やイラスト、そして番外編の「著作権を尊重しすぎるのは、本来の趣旨に反することなのだ」が付属しています。特に最後の番外編は一読の価値はあるのではないかと思っています。


はじめに

「コンピュータのき・も・ち」は、山形さんが [ascii.PC] という雑誌にに 2001〜2002 年の間に連載されていたコラムを纏めたものです。書籍には記載されていませんが、このコラムのサブタイトルは「――あるいは How to be an Computer Otaku」。もしかしてコンピュータオタクになるための指南書なのかもしれない。

何か技術を身につけたい、とか情報を収集したいという本ではなく、漠然と「コンピュータのことが知ってみたい」と思っている人向け。

詰まらないことで必死になっているヲタクの気持ちが分かるかも =)。


「おたくたち(ぼくとか)は段階的にコンピュータに入ってきたってことだ」

連載第1回:なぜパソコンはこんなにめんどうでわかりにくいのか、またはおたくの罪」より。たぶん今現役の開発者は、コンピュータの段階を踏まえて学ぶことの出来た最後の世代かもしれない、と少し寂しく思った。確かに FIFO の仕組みを(言葉だけ知っている) Software 開発者や、マルチタスクの仕組みを(言葉だけ知っている) Hardware 開発者が多くなっているのが気になっている。概念だけわかっても現実にどう扱われているのかということが分かっていないと何の役にも立たないのに。「実際にやってみろ」と言っても「担当ではない」と言われることが多くなった。

段階を踏まえてコンピュータを知ることは今後は無くなってしまうのだろうか。


「しばらく前までおたくは http://cruel.org/gnome というウェブのアドレスの指定をすごく嫌った」

#web では「http://cruel.org/asciipc」となっていましたが書籍では「http://cruel.org/gnome」と書き直されたようです。

連載第3回:コンピュータの孤独と虚無」より。見覚えあるなあ。何か必死で「http://cruel.org/gnome」じゃなくて「http://cruel.org/gnome/」にするべきだ、と言っていたような。理由は単純でアドレスが「http://cruel.org/gnome」だと最初に gnome というファイルがあるか検索を仕掛けるため、余計なストレスがネットワークに掛かってしまうから。

確かに「もったいない」とか「可哀想」という考えがあったから、あんなに必死になっていたのかもしれない。今も昔ほど必死じゃないけど見かけたらアドバイス位はするかな。


「実は最近の人工知能は、生意気にもチューリングテストにあっさり合格できるそうだ」

連載第4回:コンピュータだっていそがしいのだ。」より。チューリングテストについては [Computing Machinery and Intelligence (計算する機械と知性)(プロジェクト杉田玄白)] が詳しい。[「考えるコンピューター」を競うコンテスト(Slashdot.jp)]とかを見ている限り、私が生きている内は大丈夫なのかな。


「思っていないことをやらないようにさせることだ。が……これが最高に難しい。」

連載第 11 回: コンピュータにとっては、あなたも一塊のソフトウェアでしかないのだ。」より。今のセキュリティ問題と通ずるものがあるかもしれない。開発者も何もバグを出したくて開発をしている訳じゃなく、バグがどこに潜んでいるかが分からないのだ。また、仕様をバグとして見せない技術(もしくは説明)もかなり難しい。そこら辺、是非理解して欲しい。

コンピュータの自由さが上記のような弊害を生んでいると私は考えています。「私は使う人、あなたは作る人」モデルを貫くならコンピュータでは無くワープロを使用することをお勧めしたい。「なんでも出来る」ことは「何にも出来ない」ことと相通ずるものがあるかもしれない。


「自分の不自由さ、融通のきかなさを、コンピュータのせいにしていないだろうか。」

連載最終回: コンピュータは、あなたをもっと自由にしてあげたいと思っている、はずなのだ。」より。コンピュータを自由に扱えるようになった時、「Computer Otaku」になれるのかもしれない。

そうあって欲しい。


「人は自分には甘い。この文を読んで、ふんふんとうなずいてくれているあなたでも、いざ自分がウェブページを作って、それがどこかで罵倒されていたり、あるいは雑誌でいつのまにか無断で紹介されていたりしたら、いきなり知的所有権だの自己同一性なんとかだのをふりかざしはじめる。」

「番外編: 著作権を尊重しすぎるのは、本来の趣旨に反することなのだ」より。web では公開されていないのですが是非この章は読んで欲しい。

確かにそうなのだ。開発している人の温度とそれ以外の人の温度は違う。いざ自分が開発者側に回った時、自分に対して他人に「自由」を提供できるのか?「GPL なんだから無償で公開しる!G・P・L!G・P・L!」と騒いでいた輩は、どう考えても開発者側には回ることは無いのかもしれないが、開発者側にとっては大きなストレスとなることは分かって欲しい。

人に何かを与えられるのを強要しないで欲しい。それではまるで乞食だ。人に何かを勧められる選択肢の一つになることを目指して欲しい。さらにそれが「自由」に使っていいものであれば申し分ない、と思うのだ。

少なからず私はそれを目指したい。

(04.02.01:記載)


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